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スマホをオフせよ、映画を見よう

オオヤマケイタロウ
2020.04.30

「学生向けに映画コラムを書いてほしい」そう頼まれたのは2019年12月のこと。私は酒屋を生業としていて年末はなかなか忙しい。急な依頼だったしどうしようか迷ったが引き受けることにした。映画は好きだし、そんなものを書いてみたいなんて願望もなくはないし・・・。何より学生さんに何かを書くという機会はこの先訪れそうにない。
あらかじめ言っておくと、このコラムは、私の最初の映画体験に基づいた極端な事例についてである。なので、これから書くことに「・・・で?」と思ったり変な文章だと思ったりしても、酒屋だししかたないよね、と優しく見守ってほしい。

「ラスト・アクション・ヒーロー」「酔拳2」「ネバーエンディング・ストーリー2」の三本立て。これが私の記憶の限り最初の映画体験だ。

ひとしずくのテーマ性も持たないこの三本立ては、今の時代でも「バックトゥ90’s」とかの文句で成立するのかしないのかビミョウだが、当時の人は一体どんな気持ちで見にいったのだろう。なにせ「2」が二本もある。もしかしたら90年代は今よりも映画が純粋なエンターテインメントとして云々、、、なんてことだったのかもしれないが、小学生の私は両親に連れられるまま訳もわからず映画を見に行ったのだ。今はもうウィキペディアで調べてもストーリーは曖昧だが、「ラスト・アクション・ヒーロー」では、この世界にはすごいマッチョで強い人がいる、とか、「酔拳2」では、マッチョじゃなくても酒を飲めば強くなれる、とか、「ネバーエンディング・ストーリー2」では、とんでもなくデカい犬がいるもんだ、とかくらいは少年の私の心に刻まれたようだ。この初めての映画体験は、学校のテストや受験ではもちろん、実生活でも役に立たなかった。月曜日になったらクラスの誰かに話そうと思うような強いネタでもない。となると、あの映画体験は全く無意味だったのか。否、信じられないかもしれないが、全ての映画体験に(多かれ少なかれ)意味があるのだ。

私の最初の映画体験で例えると、「すごいマッチョで強い人がいる」は、そのことを見て知れたこと自体に意味がある。目の前にいきなりシュワちゃんが現れたら、少年の私は冷静でいられるが、見たことない人はビックリしちゃうはずだ。これはいきなり核心なのだが、せっかくだ、他の二例にもふれよう。「マッチョじゃなくても酒を飲めば強くなれる」は実際に見たことがある。父の配達で酒場について行ったとき、酔っぱらったヒョロい中年のおじさんが、おそらくシラフであろう体格の良い若者に、柔術をかけてのしてしまったのだ。状況はわからなかったが、これはきっと「酔拳」の一種にちがいないと、少年の私はランランと目を輝かせた。「とんでもなくデカい犬がいる」も、大きな声では言えないが実際に見ている。あれは高2の秋、野球部の私は放課後の練習を終え、友人と二人で帰路についていた。練習用のライトも消え、すっかり日も落ちたところで、視界の隅で輝く月に気がついた。友人とほぼ同時に見上げたそのとき、くっきりした丸の前を大きくて長いものがウニョリと横切ったのだ。私たちは瞬間あっけにとられたが、その友人も「ネバーエンディング・ストーリー」を見ていたのか、お互い目を合わせると「うん」とうなずいてその後は何も話さなかった。彼が見たものが何かはわからなかったが、後日その友人が自身の天然パーマにかこつけてあだ名を「ファルコン」に改名したことでそれは確信に変わった。

さて、思い出はここらへんにして、私が一体何が言いたいかというと、それは一例目でふれたように、映画の中で一回見たり知ったりしたことはそのまま経験になるということ。そして、あの最初の映画体験がなければ、他の二つの実体験は、何だかよくわからない事になっていたかもしれない、ということだ。実際あの三本を見ていない人は、ここまで書いたことがよくわからないはずだ。だからどうした、という話だがもう少し続けよう。

もしあなたが、「酔拳」を見ていないで私と同じ酒場の体験をしたらどう思うだろうか。ただの喧嘩であるなら、「怖い」とか「危ない」とか「野蛮だわ、、、」とか、マイナスの印象を抱くだろう。そもそも喧嘩であるかもわからないわけで、正当な理由のある決闘かもしれない。とにかく状況もよくわからないのだ。そのため、ヒョロいおじさんと若者のどちらが悪いのか、ということも把握できずに、止めたいけどどうしようとか、どちらを応援しようとか、あの人かっこいいかもとか、はたまたいろいろ考えているうちに、「悪」とは何か?とか哲学的なことを思うかもしれない。ところが、「酔拳」を見ていればこうだ→弱そうな主人公(おじさん)が、酔っぱらうことでパワーアップし、敵(若く屈強な男)をやっつけた。

あなたの思考は見事にシンプルになり、目の前の勧善懲悪に高揚すら覚えるだろう。いろいろな真実がどうであれ、その場を気持ちよくやり過ごせるはずだ。

「ファルコン事件」ではこうしよう。高2の秋のあの日までに私と友人どちらもが「ネバーエンディング・ストーリー」を見ていなかったとする。疲れた私たちの目に飛び込んできたのは、息を呑む美しさの月と、その完全に対極のなにか禍々しく大きな物体ではないか。古代より恩恵を受けた光と、人では抗えない生物への恐怖とが同時に押し寄せ完全キャパオーバーの私たちはその場で卒倒するだろう。騒ぎが大きくなれば、学校、マスコミ、いずれは未確認生物を追う科学集団、さらには国家をも巻き込んだ事件に発展してしまうかもしれない。そこまでならないとしても、翌日二人は鼻の穴を大きくしてあの大きな物体のことを、クラスや部活で話すだろう。あれは、それくらいインパクトのある体験だ。しかし、そんなことは実際に目撃していない人たちからすれば、「UFOを見た」と同じくらいの話である。それから二人はキワモノ扱いされるようになり、その後輝いたかもしれない残りの高校生活をふいにすることになるのだ。
いずれにせよ、私とその友人の人間性を揺るがし変えてしまってもおかしくないエピソードだ。

さてここでは、百歩譲って二人のうち、その友人だけが「ネバーエンディング・ストーリー」を見ていたとしよう。あまりの恐怖に腰が抜けた私に彼はこう言うのだ。「大丈夫。」菩薩の如く包み込む言葉と、どこか誇らしげな表情に私は安堵する。そこで初めて「ネバーエンディング・ストーリー」という映画の存在を教えられた私は、帰り道TSUTAYAさんでDVDをレンタル→その日のうちに映画を見る→すべてを理解し翌日学校でその友人とアイコンタクトを交わす→「うん」。このように、もしもあなたがその場にマッチした映画体験をしていれば、自分だけではなく、周りの人にもそれを共有し、物事をシンプルに収めることができるのだ。私のよくわからない映画体験でさえ、後の体験に影響してくるのであるから、これはもうすべての映画体験に言えるにちがいないのだ。さらに言うと、映画体験は、実体験に留まらず、人間の感情にも影響を与える。“よくわからない出来事”をシンプルに捉える手伝いを映画体験がしてくれるように、“よくわからない感情”にもそれは手を差し伸べてくれる。
“よくわからない感情”とは、例えば、苦しみ、憎しみ、恋、愛。あなたが学生であるなら、受験や就職活動、その先の仕事、そして恋愛である。どうしてそうなったのか、どれほどに深いものなのか、それを言葉で説明することはとても難しい。自分の中ですら理解できない。そのような感情は、とても複雑怪奇と思えるが、見方を変えれば至極シンプルだという事を映画はきっと教えてくれる。

「へえ、じゃあどんな映画を見ればいいの?」無責任なようだが、私の最初の映画体験のように、見るのは何でもいいのだ。人はそれぞれ、考え方、生活が異なるわけであり、どの映画体験が、どの場面どの感情に、どのように作用するかはわからない。サブスクでもSNSのオススメでもいいし、映画好きな友人、親戚がいれば一緒に映画館へ行けばいい。気になるあの子を映画に誘うのもいい。何でもいいから映画を見よう。その映画体験は、いつかあなたの人生をどうにかするかもしれない。 ・・・とは言うものの、人生を変えてしまうほどの映画に出会うことはめったにないし、今こうしてこのコラムの締めの文言に行き詰っていても映画体験は力を貸してくれそうにない。それでも映画を見てほしいのは、それが、ゆっくりと時間をかけて誰かの人生を生きやすくしてくれることは確かだと思うからだ。私が酒屋になろうと思ったのも、昔「スモーク」という映画を見たからだ。そのことはとてもゆっくりと私に影響していったように感じる。あわよくばそんなこんなが少しでも皆さんに伝われば幸いだ。優しく見守ってくれてどうもありがとう。


オオヤマ ケイタロウ(酒のしみず屋)

映画好きな茨城の酒屋の亭主


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